最近、神社やお寺に出かけると、御朱印帳を手にしている方を本当によく見かけますよね。私自身も、あの美しい墨書きや、その場所ならではの力強い朱印に惹かれて、各地の神社を巡るのが休日の楽しみになっています。
ただ、最近ネットで検索をしていると、御朱印集め 良くないという言葉を頻繁に目にするようになりました。せっかくの素敵な文化なのに、どうしてそんな風に言われてしまうのかなと、少し悲しくなることもあります。ニュースなどを見ていると、一部でのマナーの欠如や、信じられないような転売の実態が理由として挙げられているようです。また、日蓮宗などの特定の宗派で厳しい対応をされたことで、怖い思いをしたり戸惑ったりして、検索されている方もいらっしゃるかもしれません。せっかく始めた趣味なのに、自分自身の行動が不快に思われていないか不安になりますよね。
この記事では、なぜ今そんな風に言われてしまうのか、その社会的な背景や宗教的な意味を詳しく整理しました。これを知っておくだけで、周囲に迷惑をかけることなく、もっと豊かな気持ちで参拝ができるようになります。本来の癒やしの時間を取り戻して、神様や仏様とのご縁を大切にするためのヒントを一緒に探していきましょう。
【この記事で分かること】
- 御朱印が本来持っている「功徳」や宗教的な深い意味
- ネットで批判される原因となっているマナー違反や転売の実態
- 日蓮宗など特定の宗派を訪れる際に知っておきたい独自のルール
- 無理せず自分のペースで長く趣味として楽しむための心の持ち方
御朱印集めが良くないと言われる背景とマナーの問題

まずは、ネットやSNSで「良くない」という声が上がってしまう根本的な理由を深掘りしてみます。私たちが手にしている御朱印には、歴史的な重みと、それを受け取る側・授ける側の意識のズレが大きく関わっているようです。
納経の歴史から紐解く御朱印が持つ本来の意味

私たちが普段いただいている御朱印ですが、そのルーツを辿ると今の「集める」という感覚とは少し違う景色が見えてきます。もともとは「納経(のうきょう)」といって、参拝者が自ら書き写したお経を寺院に奉納し、その証として受け取る受領印が始まりだったんですね。つまり、今のようにお金を出してすぐに「もらう」ものではなく、自らの身体と時間を使って修行した結果として「授かる」ものだったというわけです。
江戸時代以前の日本では、お経を一文字ずつ丁寧に書き写す行為は、仏様の心に触れる最高の善行であり、自分自身の「功徳(くどく)」を積むための大切な修行でした。そのため、御朱印帳(納経帳)は単なるスタンプ帳などではなく、自分が積み重ねた信仰の証そのもの。昔の人々は、この帳面を「極楽浄土へのパスポート」として、亡くなった際に棺に入れるほど大切にしていたそうです。そうした重厚な歴史を知ると、単に「デザインが可愛いから」「コンプリートしたいから」という動機だけで行動することが、なぜ一部で「良くない」と眉をひそめられるのかが分かってくる気がします。
もちろん、現代において写経が必須ではない場合も多いですが、その背景にある「敬意」を忘れてはいけないなと感じます。私たちが何気なく開く御朱印帳の一ページには、本来それだけの深い精神性が宿っているんですね。まずはこの原点を知るだけでも、授与所に向かう時の気持ちが少し引き締まるのではないでしょうか。
知っておきたい御朱印の語源
実は「御朱印」と呼ばれるようになったのは昭和に入ってからと言われています。それまでは「御判(ごはん)」や「納経印」と呼ばれており、文字通り「お経を納めた証」としての性格が非常に強かったのです。今の形は、長い歴史の中で旅の楽しみと融合して発展してきたものなんですね。
参拝を省略するスタンプラリー化への厳しい批判

最近のブームの中で、神社やお寺の職員さんたちが最も心を痛めているのが、参拝を形式的に済ませたり、あるいは全くせずに御朱印だけを求めてくる「スタンプラリー化」という現象です。私たちが観光地で駅のスタンプを押すのと同じ感覚で、鳥居をくぐってそのまま授与所へ直行してしまう。これは、神様や仏様を祀る聖域においては、非常に失礼な行為とされています。
神社本庁などの公的機関も警鐘を鳴らしていますが、御朱印はあくまで「参拝の証」です。まず神前に立ち、二礼二拍手一礼(お寺なら合掌)をして、自分を名乗り、日々の感謝を伝える。そのプロセスがあって初めて、御朱印をいただく資格が生まれるという考え方です。しかし、SNSで「映える」御朱印が話題になるにつれ、効率よく多くの場所を回ること自体が目的になってしまい、肝心の神仏との対話がおろそかになっている人が目立っています。これが、信仰を大切にする人々から「御朱印集め 良くない」と批判される大きな要因です。
「お客様」としてサービスを受けに行くのではなく、「参拝者」として神聖な空間にお邪魔するという謙虚な姿勢が必要なんですね。私も忙しい時こそ、一度深呼吸をしてからお参りするように気をつけています。効率を求める市場原理を、あえて宗教空間に持ち込まない。それこそが、私たちが守るべき最低限のラインなのかもしれません。
マナー違反と言われないためのチェックリスト
- 鳥居の前で一礼してから境内に入っていますか?
- 手水舎で心身を清めましたか?
- 御朱印をいただく前に、まず本殿・本堂でお参りしましたか?
- 「ありがとうございます」と感謝の言葉を伝えましたか?
(出典:御朱印マナー(宮城県神社庁))
メルカリ転売や商業化が招く宗教的価値の喪失

ネットで「良くない」という意見を加速させている最大の闇は、やはり御朱印の転売問題でしょう。メルカリなどのフリマアプリを覗くと、限定の御朱印が本来の初穂料の数倍、時には数万円という高値で出品されているのを目にします。これは、本来の宗教的な意義を完全に無視した、あまりにも悲しい行為です。
神社側からすれば、御朱印は販売している「商品」ではありません。参拝者と神様が結ばれたご縁の証として授与しているものです。そのため、お金で売り買いされた御朱印には、宗教的な価値は一切ないと断言する神職さんもいらっしゃいます。宮崎県の有名な神社などでは、転売された御朱印は「単なるコピー品と同じ」という厳しい見解を示しており、そうした行為が横行することで、本当に欲しかった純粋な参拝者が授与を受けられなくなるという実害も出ています。
また、転売屋が利益のために行列を占拠し、境内を殺伐とした雰囲気に変えてしまうこともあります。これは場の清浄さを損なう行為であり、神社側が「もう頒布はやめよう」と決断せざるを得ない状況を作り出しています。転売品を買う人がいる限り、この問題は無くなりません。私たちにできることは、どれほど希少なものであっても、自らの足で訪れていない御朱印には手を出さないという強い意志を持つこと。神様とのご縁は、決して他人の手を介して買えるものではないのですから。
浅草神社での暴言事件に見る参拝客のマナー違反
御朱印ブームの負の側面として、歴史に刻まれてしまったのが浅草神社の三社祭でのトラブルです。特別な御朱印を求めて殺到した群衆が、待ち時間の長さに腹を立て、神職や巫女さんに対して暴言や恫喝を行ったという事件です。中には「自分は客だぞ」「遠くから来たんだから何とかしろ」といった、およそ神社という場所にはふさわしくない言葉が飛び交ったといいます。
この事件の本質は、参拝者が自分を「信仰者」ではなく「消費者」だと勘違いしてしまった点にあります。初穂料を「代金」と考え、それに対する「サービス」を要求する。しかし、神社はサービス業ではありません。神様への感謝を捧げる場です。そうした消費者意識の暴走が、結果として伝統ある三社祭の特別御朱印の中止という悲しい結末を招いてしまいました。
一部の心無い人の行動が、御朱印集め全体のイメージを悪くし、「マナーの悪い集団」というレッテルを貼られてしまう。これは本当に残念なことです。私たちは常に「お邪魔させていただいている」という立場を忘れず、たとえ何時間待とうとも、その時間すらも「神様と向き合う時間」として受け入れる心の余裕を持ちたいものですね。こうした事件を風化させず、自分たちの振る舞いを正していくことが、ブームを文化へと昇華させる唯一の道だと思います。
ちいかわコラボの転売騒動に見る現代の宗教課題
最近では、アニメやキャラクターとのコラボ御朱印も増えています。特に2024年に話題となった『ちいかわ』と護国寺のコラボは、若い世代や普段お寺に縁がない層を惹きつける素晴らしい試みでした。しかし、残念ながらここでも大量の転売が発生し、公式側が異例の苦言を呈する事態となってしまいました。これが現代の宗教施設が抱える、新しいジレンマです。
寺社側としては、これを機に一人でも多くの人に仏教や神道に触れてほしいと願っています。しかし、そこに集まるのが「転売目的の不信心者」ばかりになってしまうと、場の清浄さが保てなくなります。人気コンテンツと結びつくことで、信仰の場が「イベント会場」のように消費されてしまうリスク。これが、古くからの参拝者や関係者から「最近の御朱印集めは良くない」と批判される一因にもなっています。
キャラクターをきっかけに門をくぐることは、決して悪いことではありません。でも、そこが「ちいかわのショップ」ではなく、長い歴史を持つ「祈りの場」であることを忘れてはいけないんですね。可愛さに惹かれて訪れたとしても、最後には本堂で手を合わせ、その場所の空気を肌で感じる。そうした歩み寄りが、ファン側にも求められています。現代のカルチャーと伝統をどう調和させていくか、それは私たち一人一人の参拝スタイルにかかっていると言えるでしょう。
御朱印集めは良くない?楽しむための心得

さて、ここからは私たちがどうすれば「良くない」と言われない、清々しい参拝ができるかについて考えていきましょう。ちょっとした知識と心構えがあるだけで、驚くほど充実した寺社巡りができるようになりますよ。
日蓮宗での御首題拒否を避けるための専用帳面
特に初心者の方が陥りやすいのが、日蓮宗の寺院でのトラブルです。日蓮宗には「御首題(ごしゅだい)」という独自の墨書きがありますが、他の神社の御朱印が混ざっている御朱印帳を出すと、「お書きできません」とはっきり断られることがあります。これを「冷たい対応だ」「良くないお寺だ」と誤解して検索する方も多いようですが、実はこれには深い教義的な理由があるんです。
日蓮宗(特に日蓮正宗など)では、法華経以外の教えを混ぜることを「謗法(ほうぼう)」と呼び、信仰の純粋性を守るために厳しく戒めています。つまり、彼らにとってお題目(南無妙法蓮華経)を他宗派の印と並べることは、教えを汚す行為になってしまうんですね。これは、あなたを拒絶しているのではなく、彼らが「命懸けで守っている教え」に対する誠実さの表れなんです。
もし日蓮宗のお寺を巡る予定があるなら、以下の対策をしておくと安心です。
日蓮宗を巡る際のスマートな方法
- 日蓮宗専用の「御首題帳」を一冊用意する
- 専用帳がない場合は、あらかじめ「御朱印として(お題目以外の文字で)いただけますか?」と相談する
- 断られても「教えを守るためなのだな」と理解し、敬意を払う
お寺によっては「御首題帳でないと書きません」という方針を貫いているところもありますが、それは宗教施設としての矜持です。事前にその宗派の考え方を少し調べておくことで、お互いに不快な思いをせずに済むようになります。分けるのが大変だなと感じるかもしれませんが、そのこだわりこそが日本の宗教文化の奥深さなんですね。
義務感で疲れた心を癒やすマインドフルネスな旅

「御朱印集め 良くない」と検索する人の中には、自分自身が収集することに疲れてしまっているケースもあります。いわゆる「御朱印疲れ」ですね。限定品を逃してはいけない、このエリアを全部コンプリートしなきゃ……という強迫観念に駆られると、せっかくの参拝が「作業」や「労働」に変わってしまいます。これでは本末転倒ですよね。
私がお勧めしたいのは、あえて「量を捨て、質を取る」という考え方です。一日に何箇所も回るのをやめて、一箇所に一時間以上滞在してみる。御朱印の待ち時間も、スマホを見るのではなく、境内の木々が揺れる音を聞いたり、お線香の香りを深く吸い込んだりしてみる。これだけで、参拝は素晴らしい「マインドフルネス」の時間に変わります。最近では外国人観光客の方が、こうした静寂の体験を求めて神社を訪れているそうですが、私たちもその感覚を見習いたいものです。
「今日は御朱印をいただけなくても、ここに来られただけで十分」と思えるようになったら、もう立派な巡礼者です。思い出せないほど大量のスタンプを集めるより、たった一回の深い参拝の記憶を大切にする。そんなゆとりを持つことが、自分を疲れさせない秘訣かなと思います。
待ち時間のトラブルを防ぐ初穂料や小銭の作法

神社やお寺でのちょっとした振る舞いが、書き手の方との信頼関係を築く鍵になります。特に、初穂料(御朱印の代金)の支払い方は重要です。300円や500円という端数が多いからこそ、小銭をぴったり用意しておくのが最低限のマナーです。朝一番に1万円札を出して「お釣りください」と言うのは、準備に追われる神社側にとって非常に困る行為なんですね。
| 項目 | 望ましい対応 | 避けるべきこと |
|---|---|---|
| お支払い | 100円玉、500円玉を常に多めに用意する | 大きな紙幣を出してお釣りを要求する |
| 御朱印帳の渡し方 | 書いてほしいページを開き、カバーは外しておく | 無言で閉じられたままの帳面を突き出す |
| 待ち時間の態度 | 静かに境内を散策するか、指定の場所で待つ | 授与所の前で騒ぐ、書き手に話しかける |
| 撮影 | 撮影禁止の場所を確認し、無断撮影しない | 執筆中の手元を無理やり動画で撮る |
こうしたマナーは、相手への思いやりです。書き手の方は、心を研ぎ澄ませてあなたのために一筆を振るってくれています。その集中を乱さないような気遣いができるようになれば、自ずと「良くない」と言われるようなトラブルとは無縁になれるはずです。私も常に財布の中に専用の小銭入れを作って、いつでも対応できるようにしています。
転売品には手を出さず神仏との結縁を重視する
もしネットで喉から手が出るほど欲しい限定御朱印を見つけてしまったら、一度立ち止まって考えてみてください。その御朱印を手に入れたことで、あなたの人生にどんなプラスがあるでしょうか。確かにコレクションとしては満足するかもしれませんが、そこに神様との繋がりは一切存在しません。
宗教において大切なのは、神様や仏様と「縁を結ぶ(結縁)」ことです。それは、自らの足で聖域を訪れ、その場の空気を吸い、祈りを捧げた瞬間にしか生まれません。人から買い取った紙切れには、そのストーリーが欠落しています。どんなに欲しくても、「縁がなかったものは、今の自分には必要なかったもの」と割り切る強さが必要です。それが、神道や仏教が教える「執着を捨てる」という教えにも繋がります。
また、転売に手を貸さないことは、結果として大切な文化を守ることにも繋がります。あなたが買わなければ、転売屋は消え、神社はまた安心して特別な御朱印を頒布できるようになります。未来の参拝者のためにも、そしてあなた自身の魂の清浄のためにも、正当な手段で、正当な場所から授かることの喜びを大切にしていきましょう。
ホトカミ等のサイトを活用し体験を記録する工夫
物理的な「モノ」としての御朱印にこだわりすぎると、どうしても執着が生まれてしまいます。そこで最近注目されているのが、デジタルツールを活用した参拝記録です。「ホトカミ」などの参拝者コミュニティサイトでは、御朱印の写真はもちろんどんな気持ちで参拝したか、境内のどんな場所に感動したかを記録し、他のユーザーと共有することができます。
これの良いところは、たとえ御朱印をいただけなかった(あるいはあえていただかなかった)参拝であっても、等しく「価値ある体験」として残せる点です。物理的な帳面がいっぱいになることを競うのではなく、「どれだけ心が動いたか」をストックしていく。これなら、行列に並ぶストレスも、転売への不信感も乗り越えて、純粋に神社巡りを楽しむことができます。
私も最近は、御朱印をいただくこと以上に、その後の参拝記を書く時間を大切にしています。振り返った時に「ああ、あの日は風が気持ちよかったな」と思い出せる記録は、何物にも代えがたい宝物になります。形あるものへの執着から離れ、自分の内面を見つめるツールとして、こうした新しい技術をうまく取り入れていくのも、これからの時代の賢い楽しみ方かもしれません。
まとめ:御朱印集めが良くない結果を招かないための心得
ここまで「御朱印集め 良くない」と言われる理由から、その対策まで長々と書いてきました。結局のところ、大切なのは**「相手を敬う心」**があるかどうか、という一点に尽きるような気がします。御朱印は単なるアイテムではなく、何千年も続いてきた日本の信仰文化の一部。そこにほんの少しの敬意を持って接するだけで、見える景色はガラリと変わります。
もしあなたが「御朱印集め 良くない」という言葉に不安を感じていたなら、どうか安心してください。マナーを守り、自分なりのペースで神仏に向き合おうとしているあなたの姿勢は、決して否定されるものではありません。一部の心無い行動に惑わされることなく、あなた自身の清らかな心で、これからも素敵な神社・お寺とのご縁を紡いでいってくださいね。
明日からの参拝で心がけたい4つのポイント
- 御朱印は「参拝のご褒美」ではなく「祈りの証」として授かる
- 宗教ごとのルールや歴史(日蓮宗など)を尊重し、事前に少しだけ学ぶ
- 初穂料の準備や静寂を保つなど、周囲への気配りを忘れない
- モノを集める欲よりも、その場所で感じた「安らぎ」を大切にする
この記事が、あなたの御朱印巡りをより深く、そして心豊かなものにする助けになれば幸いです。なお、正確な情報は各神社仏閣の公式サイトをご確認ください。最終的な判断は専門家(神職や僧侶)の指示に従い、無理のない範囲で、自己責任を持って楽しんでくださいね。皆様に良いご縁がありますように!

