神社への参拝は、私たちの心を落ち着かせ、新たな気持ちにさせてくれる、古くから続く素晴らしい習慣です。しかし、「神社の行き過ぎは良くない」という話を耳にして、少し不安に思ったことはありませんか?
特に、御朱印集めなどをきっかけに神社巡りが趣味の女性が増えている昨今、熱心に参拝する人が注意すべきことは何か気になる点も多いはずです。
この記事では、多くの人が抱く素朴な疑問、例えば神社をはしごするのは良くないのか、同じ神社に何度も行くのはどうなのか、そして自分にとって適切な参拝の頻度はどのくらいかについて、背景にある考え方も含めて分かりやすく解説します。
また、そもそも神社に行かない方がいい人はいるのか、参拝を避けるべき行かないほうがいい日があるのかといった、一歩踏み込んだ情報もお伝えし、多くの人を惹きつけてやまない神社に行きたくなる心理とは何か?を探りつつ、悪いことが起こると言われるのは本当なのか、神様から歓迎されてないサインとはどんなものかについても掘り下げていきます。
この記事を読めば、神様とのより良いご縁を育むための、心構えと具体的な作法のヒントがきっと見つかるはずです。
【この記事で分かること】
- 神社に行き過ぎることが良くないと言われる本当の理由
- 運気を下げかねないNGな参拝方法の具体例
- 自分に合った正しい参拝頻度の見極め方
- 神様との良いご縁を結ぶための参拝マナー
神社の行き過ぎは良くないと言われる理由

- 神社に行きたくなる心理とは
- 神社によく行く人が注意すべきこと
- 神社巡りが趣味の女性が気を付ける点
- 悪いことが起こると言われるのは本当?
- 神様から歓迎されてないサインとは
神社に行きたくなる心理とは
心が疲れた時や人生の大きな岐路に立った時、私たちはなぜか自然と神社の静かな空気を求めてしまうことがあります。この、いわばDNAに刻まれたような感覚の背景には、いくつかの心理的・文化的な要因が深く関わっています。
まず最も根源的な理由として、心の安らぎや浄化を求めている状態が挙げられます。神社の境内は、鳥居をくぐった瞬間から日常の喧騒や俗世の悩みから切り離された「神域」という特別な空間です。樹齢数百年の御神木、苔むした石灯籠、澄んだ空気、そして厳かな拝殿。これらに囲まれて深呼吸をすると、心が洗われるような清々しい感覚を得られます。
これは、現代社会のデジタル化やスピード化によるストレスに対する、本能的なデトックス作用を求めているとも言えるでしょう。神社の空間は、自分自身の内面と静かに向き合うための、いわば「心のサンクチュアリ」としての役割を果たしているのです。
次に、何か大きな力にすがりたい、見守っていてほしいという根源的な願いがあります。自分の努力だけではどうにもならない困難な問題に直面した時、人は古くから神様や仏様といった超越的な存在に祈りを捧げてきました。
これは単なる他力本願ではなく、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉に表されるように、最大限の努力をした上で、最後の一押しや心の支えを求める、謙虚で素朴な信仰心の発露なのです。
さらに、近年のパワースポットブームも、この心理を後押ししています。神社が持つとされる特別なエネルギーや「気」にあやかり、運気を向上させたいという動機は、多くの人々、特に若い世代を神社へと向かわせる大きな力となっています。メディアで紹介された有名な神社を訪れ、その「ご利益」を期待するアクティビティは、レジャーの一環としても定着しました。
このように、精神的な安寧への渇望、具体的な願い事の成就、そして運気上昇への期待という三つの要素が複雑に絡み合い、私たちの足を神社へと向かわせる強い動機を形成していると考えられます。
神社によく行く人が注意すべきこと
氏神様へ日々の感謝を伝えたり、お気に入りの神社を心の拠り所として頻繁に足を運んだりすること自体は、神様とのご縁を深める素晴らしい習慣です。しかし、神社によく行く熱心な人だからこそ、陥りやすい落とし穴や注意すべき点がいくつか存在します。
最も警戒すべきは、参拝が形骸化し、神様への感謝や畏敬の念が薄れてしまうことです。頻繁に参拝することが日常になると、一つ一つの作法が惰性的になりがちです。
例えば、鳥居をくぐる際の一礼を忘れたり、手水舎での清めを面倒に感じて省略したり、拝殿前での二拝二拍手一拝がただの動作になったりすることがあります。参拝がスタンプラリーのような「こなす作業」になってしまうと、本来最も大切であるはずの「心を込めて感謝を伝える」という本質が失われてしまいかねません。
また、知らず知らずのうちに自己流の参拝方法に陥ってしまう危険性も指摘できます。慣れてくると、「時間がないから」「いつもこうしているから」といった理由で、基本的な作法を軽んじてしまうことがあります。しかし、神社にはそれぞれ古くからのしきたりや作法があります。それを無視した自己流の参拝は、意図せずとも神様に対して失礼な振る舞いをしている可能性があるのです。
さらに、心理的な側面として、「これだけ参拝しているのだから、ご利益があって当たり前」というような、消費者的な思考に陥ることも危険な兆候です。神社は願い事の自動販売機ではありません。あくまでも日頃の感謝をお伝えし、謙虚な気持ちでご挨拶をする場所であるという基本姿勢を忘れてはなりません。
言ってしまえば、神様との関係において重要なのは、参拝の回数という「量」よりも、一回ごとの参拝にどれだけ心を込められるかという「質」なのです。頻繁に参拝するからこそ、毎回新鮮な気持ちで神様と向き合い、感謝の気持ちを丁寧に伝える姿勢を意識して保つことが、末永く良いご縁を育むための鍵となります。
神社巡りが趣味の女性が気を付ける点
近年、デザイン性の高い御朱印帳の登場やメディアの影響もあり、神社巡りを趣味とする女性が飛躍的に増えました。美しい御朱印を集めたり、神社の静かな雰囲気を楽しんだりすることは、心を豊かにする素晴らしい趣味です。
しかし、この趣味をより深く、そして安全に楽しむためには、いくつか心に留めておきたい注意点があります。
第一に、趣味の本来の目的を見失わないことです。神社巡りの中心は、あくまでもその神社に祀られている神様への参拝です。御朱印集めや、SNS映えする写真を撮ることに夢中になるあまり、肝心の参拝がおろそかになったり、参拝せずに御朱印だけをいただこうとしたりするのは、本末転倒と言わざるを得ません。御朱印は本来、納経や参拝の証としていただくものです。まず心を込めて神様にご挨拶をするという、敬意に満ちた順序を常に忘れないようにしましょう。
第二に、服装や持ち物への配慮です。神域は神聖な場所であり、過度な露出やラフすぎる服装は避けるのがマナーです。また、スピリチュアルな観点からは、殺生を連想させるアニマル柄の服や小物は、神様が嫌う「穢れ」に繋がると考えられているため、避けた方が無難とされています。神様にお会いするのにふさわしい、清潔感のある服装を心がけることが大切です。
第三に、ネガティブなエネルギーからの影響です。特に感受性が豊かな方は注意が必要です。有名な神社やパワースポットには、良質なエネルギーだけでなく、様々な人々の悩みや苦しみといったネガティブな念も集まりやすい場所です。自身の心身が疲れていたり、精神的に不安定だったりする時にそうした場所へ行くと、他人の「邪気」と呼ばれるエネルギーを受けてしまい、かえって体調を崩したり、気分が落ち込んだりする可能性があります。神社巡りを楽しむためには、まず自身のコンディションを良好に保つことが、自分自身を守る上で非常に重要になります。
悪いことが起こると言われるのは本当?
「神社に行き過ぎると、かえって悪いことが起こる」という、にわかには信じがたい噂を耳にして、不安に思う方もいるかもしれません。これは単なる迷信として片付けられることもありますが、スピリチュアルな観点や古くからの言い伝えを紐解くと、いくつかの根拠となる理由が見えてきます。
まず、複数の神社で同じ強い願い事をすると、神様同士が喧嘩をしてしまい、願い事がかき消されるという説があります。もちろん、徳の高い神様方が人間のように嫉妬したり喧嘩したりすることはありませんが、これはエネルギーの法則として捉えることができます。
それぞれの神様が持つ異なるエネルギーが、一つの願い事を巡って干渉し合い、結果として力が相殺されてしまう、という比喩的な表現と解釈できます。あちこちで同じことを願う浮気性な態度は、一人の神様からの深いご加護を集中して受け取る妨げになるかもしれません。
次に、自分と神社の「相性」の問題です。自然界の万物を「木・火・土・金・水」の五行思想で捉えるように、神社や祀られている神様、そして私たち人間にも、それぞれ固有の属性やエネルギーの特性があると考えられています。
もし、自分とは全く異なる、あるいは相反する属性の神社に頻繁に通ってしまうと、ご利益を得られないばかりか、エネルギーの不調和によって運気が停滞したり、下がってしまったりする可能性も指摘されています。
さらに、目に見えない「邪気」の影響も無視できません。神社は人々の様々な念が集まるエネルギーの交差点のような場所です。中には、強い悩みや妬み、苦しみを抱えて参拝に訪れる人も少なくありません。そうした人々が発したネガティブなエネルギーが、その場に滞留していることがあります。
特に心身が弱っている状態の時に、そうした場所に無防備に何度も足を運ぶと、その邪気に同調してしまい、悪い影響を受けてしまうことがあるのです。これらの理由から、手当たり次第に神社を巡るのではなく、自分とのご縁を感じる神社を見つけ、一社一社と丁寧に向き合う謙虚な姿勢が求められるのです。
神様から歓迎されてないサインとは
神社に参拝しようと計画したり、実際に足を運んだりした際に、不思議とスムーズに進めないという経験はないでしょうか。
それは偶然ではなく、もしかするとその神社の神様や、あなたを守護する存在から「今は来るべき時ではない」「この場所はあなたに合わない」と伝えられている、歓迎されていないサインかもしれません。自分の直感を信じ、こうしたサインに気づくことが大切です。
参拝を阻む出来事
最も分かりやすいサインの一つが、参拝を物理的に阻むようなトラブルの発生です。
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天候の急変: 家を出る時は快晴だったのに、神社の最寄り駅に着いた途端に土砂降りの雨や雷、強風に見舞われる。
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交通機関のトラブル: 乗るはずだった電車やバスが大幅に遅延したり、運休になったりする。あるいは、神社へ向かう道で渋滞に巻き込まれたり、道を間違えたりする。
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急な予定の割り込み: 参拝直前に、どうしても断れない急な仕事の依頼や家族からの呼び出しが入る。
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体調の急変: 出かける直前になって急に頭痛がしたり、お腹が痛くなったりする。 これらの出来事が一度だけでなく、その神社に行こうとするたびに重なるようであれば、それは強いメッセージである可能性が高いと考えられます。
境内で感じる違和感
無事に境内にたどり着いたとしても、そこで感じる空気や自身の感覚に注意を払う必要があります。
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気分の変化: 鳥居をくぐった瞬間に、理由もなく気分が重くなったり、悲しい気持ちになったり、あるいは焦燥感に駆られたりする。
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身体的な不調: 境内に入ると、急に頭痛、吐き気、悪寒、あるいは体の一部がかゆくなるなどの身体症状が現れる。
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動物の反応: 境内にいるカラスがしきりに鳴いて威嚇してきたり、普段は人懐っこいはずの猫がさっと逃げてしまったりする。
このような違和感を覚えた場合は、その神社のエネルギーとご自身の波長が合っていない可能性があります。無理に参拝を続けず、「また改めて参ります」と心で伝え、失礼のないように一礼して静かにその場を立ち去るのが賢明な判断です。逆に、心地よい風が吹いたり、美しい木漏れ日が差したり、結婚式などの喜ばしい場面に遭遇したりするのは、歓迎されている幸運のサインとされています。
神社の行き過ぎが良くないかの判断基準

- はしごするのは良くない?
- 同じ神社に何度も行くのはどうなのか
- 知っておきたい適切な参拝の頻度
- 神社に行かない方がいい人はいる?
- 参拝を避けるべき行かないほうがいい日
- 神社に行けない時の心の持ちよう
- 神社の行き過ぎが良くないのか:結論
はしごするのは良くない?
旅行や観光の際に、その地域にある複数の有名な神社を一日で巡る、いわゆる「神社のはしご」。この行為について、マナーとしてどうなのか、神様に対して失礼にあたらないかと心配する声は少なくありません。この問題は、一概に「良い」「悪い」と断定できるものではなく、その動機と心構えによって意味合いが大きく変わってきます。
まず、一般的に良くないとされる理由は、神様への敬意が希薄になりがちだからです。一日で多くの神社を効率よく巡ることを優先すると、必然的に一社あたりの滞在時間は短くなります。その結果、参拝がスタンプラリーのように形式的なものになってしまう危険性があります。次から次へと移動するだけでは、心を落ち着けて神様と向き合う時間が十分に取れず、「ご挨拶」というよりも「訪問履歴を残す作業」になりかねません。
神様の立場からすれば、「誰でもいいから、たまたま近くにあったから立ち寄った」という軽い印象を与えてしまう可能性があるのです。このような「ついで参り」の積み重ねは、深いご利益には繋がりにくいと考えられています。
しかし、神社のはしごが絶対にNGというわけではありません。例えば、古くからある「七福神巡り」のように、複数の神様を順番に巡拝すること自体に意味があり、功徳があるとされる信仰の形も存在します。また、遠方への旅行など、限られた時間の中でどうしても複数の神社を訪れたいという状況もあるでしょう。
ここで最も重要になるのは、はしごをする際の「心構え」です。たとえ一社あたりの滞在時間が短くならざるを得なくても、その限られた時間の中で最大限の敬意と感謝を払うことは可能です。
鳥居の前で一礼し、手水舎で身を清め、拝殿前では心を込めて手を合わせる。一つ一つの作法を丁寧に行い、その神社の神様に対して真摯に向き合うことを心がければ、神様もその清らかな思いをきっと汲んでくださるはずです。目的が「多くの神社を巡ること」自体になっていないか、常に自身の心に問いかける謙虚な姿勢が、神社のはしごをする上での大切な作法となります。
同じ神社に何度も行くのはどうなのか
特定の神社に強い愛着やご縁を感じ、何度も繰り返し参拝すること。この行為について、熱心すぎるのではないか、あるいは神様に迷惑がられるのではないかと心配する人がいるようですが、結論から言えば、これは全く問題ありません。むしろ、神道的な観点からは非常に推奨される、素晴らしい習慣であると言えます。
同じ神社に何度も足を運ぶことは、その神社に祀られている神様とのご縁を、より深く、より強固なものにしていく行為に他なりません。人間関係に例えるなら、一度会っただけの人よりも、何度も顔を合わせて会話を交わす人の方が親しくなり、信頼関係が深まるのと同じです。
日々の暮らしの中での出来事を報告し、「いつもお見守りいただきありがとうございます」と感謝を伝えるために定期的に参拝することで、神様はあなたのことを「顔なじみ」として認識し、より親身になって見守り、力強い後押しをしてくださるようになると考えられています。特に、自分が住む地域をお守りくださる「氏神様」への日参や月参りは、古くから地域社会の安寧を願う大切な習慣として受け継がれてきました。
ただし、ここでも注意すべき点は、やはり「慣れによる形骸化」です。前述の通り、何度も通ううちに参拝がただの習慣作業になり、感謝の気持ちや謙虚さが薄れてしまう可能性があります。たとえ毎日通う神社であっても、毎回鳥居をくぐる際には一度立ち止まって呼吸を整え、「今日も参拝させていただきます」という新鮮で敬虔な気持ちを忘れないことが大切です。
近所への散歩のついでに立ち寄る、いわゆる「ついで参り」も、このようにご縁の深い馴染みの神社であれば問題ないとされています。それは、散歩が主目的ではなく、あくまで神様へのご挨拶が生活の一部として自然に行われているからです。同じ神社に何度も行くことは、神様との信頼関係を築く絶好の機会であり、心のこもった参拝を丁寧に続ける限り、運気を下げるようなことは決してないでしょう。
知っておきたい適切な参拝の頻度
「神社へはどれくらいのペースで参拝するのが正しいのでしょうか」という問いに対して、明確な「正解」はありません。毎日欠かさず参拝する篤い信仰心を持つ人もいれば、初詣や特別な時だけ訪れるという人もいます。
最も大切なのは、定められた回数や規則にこだわることではなく、自分自身の心と生活のペースに調和した、無理のない形でお参りすることです。
とはいえ、一つの目安として、日本の伝統的な暦や行事に合わせて参拝するのは、生活にリズムと神様への感謝の気持ちをもたらす良い習慣となります。
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月参り(つきまいり): 毎月1日と15日に神社に参拝する習慣です。月の始まりに無事を祈り、中間に感謝を伝えることで、清々しい気持ちで一ヶ月を過ごすことができます。
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季節の節目: お正月はもちろん、立春、夏越の祓(6月30日)、年越の祓(12月31日)といった季節の変わり目に参拝し、心身を清めて新たな季節を迎えるのも良いでしょう。
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個人の節目: 自身の誕生日や結婚記念日、あるいは何か新しいことを始める日、目標を達成した日など、自分だけの特別な日に参拝し、神様に報告と感謝を伝えるのも、ご縁を深める素晴らしい方法です。
何か大きな願い事がある時に集中的に参拝する「願掛け」もありますが、その場合も、願い事だけを一方的に伝えるのではなく、まずは感謝の気持ちから入ることが大切です。
最も避けるべきは、参拝が義務やノルマになってしまうことです。「今月はまだ一度も行けていないから、無理してでも行かなければ」という焦りや義務感から行う参拝は、心がこもりにくく、神様にもその気持ちは伝わってしまいます。
回数にこだわるあまり心に負担をかけるよりも、たとえ年に数回であっても、心から「参拝したい」「神様に感謝を伝えたい」と感じた時に、晴れやかな気持ちで訪れること。それが、あなたにとっての最も適切で尊い参拝頻度と言えるのです。
神社に行かない方がいい人はいる?
神社は原則として、参拝の意思があるすべての人を分け隔てなく受け入れてくれる神聖な場所です。しかし、古くからの神道の考え方や慣習、そしてスピリチュアルな観点から、特定の状況下にある人は、一時的に参拝を控えた方が良いとされています。
これは決して罰が当たるといった厳しいものではなく、神域の清浄さを保ち、また参拝者自身の心身を守るための、古人の知恵とされています。
「穢れ」のある状態
神道では「穢れ(けがれ)」を非常に意識します。これは不潔・不浄という意味ではなく、本来は「気枯れ」、つまり生命エネルギー(気)が枯れて活力が低下している状態を指します。
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忌中(きちゅう)にある人: ご家族など、近親者が亡くなってからの一定期間(一般的に仏式では四十九日、神式では五十日)を「忌中」と呼びます。この期間は、近しい人を失った悲しみにより、気が枯れている状態と考えられます。このような時に神域に入ることは、神様に対して失礼にあたると同時に、自身の心身にとっても負担が大きいと考えられているため、参拝は避けるのが古くからの慣習です。
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生理中の女性: 古来、血液は死に繋がるものとして穢れの一種と見なされてきました。そのため、生理中の女性は参拝を控えるべきだという言い伝えがあります。しかし、これは現代の衛生観念とは異なり、現在では神社本庁なども「問題ない」との見解を示しています。ただ、生理痛などで体調が優れない場合は、無理をせず自身の体を第一に考えるべきでしょう。
心身のコンディションが悪い状態
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体調が著しく悪い人: 高熱がある、病気で体力が落ちている、心身ともに疲労困憊しているといった状態での参拝は避けるべきです。気が弱っている状態では、神社の持つ清浄で強いエネルギーにうまく同調できず、かえって「気あたり」を起こして気分が悪くなることがあります。
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精神的に極度に不安定な人: 強い怒りや憎しみ、妬みといったネガティブな感情に支配されている時に参拝すると、その感情を神域に持ち込んでしまうことになります。また、そうした精神状態では、境内に滞留する他の人々の邪気に同調しやすくなる危険性もあります。まずは心を落ち着けてから参拝に臨むのが望ましいです。
これらの状態にある時は、無理に神社へ行かず、心身の回復を優先することが何よりも大切です。
参拝を避けるべき行かないほうがいい日
神社への参拝は、思い立ったが吉日という言葉があるように、基本的にはいつ訪れても良いものです。しかし、日本の暦には古くから伝わる吉凶があり、「事を起こすのに向かない」とされる日が存在します。
絶対に叶えたい大切な願い事がある場合や、少しでも縁起を担ぎたいと考える方は、こうした日を避けて参拝日を選ぶのも、神様への敬意の表し方の一つと言えるでしょう。
特に知られているのが「不成就日(ふじょうじゅび)」です。この日は、その名の通り「何事も成就しない日」とされ、事を始めるのに最も適さない凶日とされています。この日に願い事をしても、その効力がかき消されてしまうと考えられているため、重要な願掛けなどは別の日に改める方が無難かもしれません。
また、六曜の中で最も縁起が悪いとされる「仏滅(ぶつめつ)」や、凶日とされる「赤口(しゃっこう)」も、気になる方は避けた方が心穏やかにお参りができるでしょう。これらは元々神道由来ではありませんが、現代の日本人の生活に広く浸透しているため、無視できない要素となっています。
物理的な観点からは、台風や大雪、雷といった極端な悪天候の日も参拝は控えるべきです。足元が悪く危険が伴うのはもちろんですが、スピリチュアルな観点では、こうした天候は神様が「今は参拝すべき時ではない」と示しているサインと解釈することもできます。
逆に、参拝に最も良いとされる吉日もあります。「天赦日(てんしゃにち)」は天が万物の罪を赦す最上の吉日とされ、この日に始めたことは何事も成功すると言われます。また、「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」は、一粒の籾が万倍にも実る稲穂になるように、わずかなものが大きく増える縁起の良い日です。こうした吉日を選んで参拝するのも良いでしょう。
参拝日の吉凶の目安
これらの暦はあくまで一つの目安です。最も大切なのは、暦に振り回されることではなく、自身の心が晴れやかで、穏やかな気持ちでお参りできる日を選ぶことです。
神社に行けない時の心の持ちよう
仕事の繁忙期、育児や介護、あるいは自身の体調不良など、理由は様々ですが、神社に参拝したくても物理的に行けないという状況は誰にでも起こり得ます。そのような時、「今月もお参りに行けなかった」「神様に申し訳ない」といった罪悪感や焦燥感を抱いてしまうかもしれませんが、その必要は全くありません。
神様は、神社の社殿の中だけに鎮座しているのではなく、森羅万象に宿り、私たちのすぐそばで常に見守ってくださっている、というのが神道の基本的な考え方です。そのため、祈りや感謝の気持ちを伝える上で、物理的な場所や形式は最も重要な要素ではありません。何よりも大切なのは、神様を敬い、日々の暮らしに感謝する「心」そのものです。
神社に直接足を運べなくても、その気持ちを伝える方法はあります。例えば、自宅の静かな場所で、あるいは通勤中の電車の中や仕事の合間でも構いません。心の中で、いつもお世話になっている神社の方向を思い浮かべ、「いつもお見守りいただきありがとうございます」とそっと手を合わせ、感謝を伝えるだけでも、その清らかな祈りは時空を超えてきっと神様に届きます。これを「遥拝(ようはい)」と言い、古くから行われてきた立派な祈りの形です。
参拝がいつしか「行かなければならない」という義務になってしまうと、それは本来の自由で豊かな信仰の姿から離れてしまいます。無理をして心に負担をかけながら行う参拝は、かえって神様を心配させてしまうかもしれません。行けない時は「今は自分の務めを果たす時。また落ち着いたら、改めてご挨拶に伺います」という気持ちで、目の前の生活や自身の健康を優先することが大切です。
そして、心身ともに余裕が生まれ、晴れやかな気持ちで神社を訪れることができた時、その参拝は、行けなかった期間に募った感謝の思いも相まって、より一層心のこもった、深く尊いものになるはずです。神様とのご縁は、物理的な距離や参拝の頻度だけで測れるものではないということを、心に留めておいてください。
神社の行き過ぎが良くないのか:結論
この記事では、神社の行き過ぎが良くないと言われる理由や、神様とより良い関係を築くための参拝のあり方について、多角的に解説してきました。最後に、その重要なポイントを改めて箇条書きでまとめておきます。
- 神社に行き過ぎること自体は決して悪いことではない
- 本当に大切なのは回数という「量」よりも一回ごとの参拝の「質」
- 参拝において最も避けるべきは感謝と畏敬の念を忘れること
- 参拝が日常化しルーティーンになると心がこもりにくくなる
- 慣れからくる自己流の参拝は神様に対して失礼にあたる可能性がある
- 御朱印集めや写真撮影が目的化しないよう常に意識する
- 一つの強い願い事は複数の神社で願うのを避けた方が良い
- エネルギーの干渉により願いが届きにくくなる可能性がある
- 自分と神社のエネルギー的な相性も存在する
- 相性の悪い神社への参拝は運気を下げる可能性も指摘されている
- 有名な神社は人々の念が集まりやすく邪気の影響も考慮する
- 心身が弱っている時はネガティブな影響を受けやすいので注意
- 参拝しようとして度々邪魔が入る時は歓迎されてないサインかもしれない
- 境内での気分の変化や体調不良も波長が合わないサイン
- 神社のはしごは一社一社に最大限の敬意を払えば問題ない
- 同じ神社に何度も行くことは神様とのご縁を深める素晴らしい習慣
- 参拝頻度に決まりはなく自分の生活と心に合ったペースが一番
- 忌中や体調不良の時は無理せず参拝を控えるのが古来のマナー
- 不成就日など暦の上で縁起の悪い日を避けるのも一つの考え方
- 神社に行けない時は場所を問わず心の中で感謝を伝えるだけで十分
- 祈りの本質は物理的な場所に束縛されない
- 参拝を義務と考えず心から行きたいと思える時に行くのが最善

